私はまだ神さまを父と呼べない。
- 【K】

- 2024年11月6日
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私が通う教会には水曜日に祈祷会という集まりがあります。次週主日の礼拝で語られる御言葉の黙想をし、出席者と祈りを束ねるという内容です。(けして強制ではない。)先日の祈祷会では偶然牧師が出張ということで、私が司会を頼まれました。そこでとても印象に残るやり取りがありました。
聖書を読み終え(ローマの信徒への手紙8章14-17節)、それぞれ感想を言い合いましょうと進行しました。すると今年の春からいらしている求道中の紳士(ここでは○○さんと言う)が発言してくださいました。「私はまだ神さまを父と呼べない。なぜ父と呼ぶ必要があるのか。神さまと呼ぶだけでいいのではないでしょうか。」びっくりしました。家族に問題を抱え、自分の父親に落胆している者は神さまを父と呼べない方が多いという話を聞いたことはあったものの、実際に求道者の方が発言なさったことに面喰い、どのようにお応えしていいか迷いました。
○○さんにとっての家族観を当然私は知りえません。なにが適切な答えなのかわかりませんでしたが、以下のようなことを言ったような気がします。
①そもそも神さまは人間のように性別があるわけではない。ここで語られる父とは、当時のイスラエル世界の『父親』が持つ役割に由来すると理解していいのではないかということ。
②イエス様が私たちに教えてくださった祈りの中で、「父よ」と祈りなさいと教えててくださったことによること。
③神さまの独り子であるイエス様が、私たち人間と同じ肉体をもって生まれてきてくださったことによること。
④そして私たちの罪の身代わりとなり、十字架に架かり死に、復活なさったからこそ私たちの罪は神さまに完全に赦され、私たちが神さまの養子となることをも赦されたこと。
⑤だから神さまを父と呼べなければ、信じない者と同じであり、まったくイエス様の死と復活が私にとって関係のないものになってしまうこと。
⑥つまり神様を父と呼べなければ、イエス様を神様の独り子であるとも言えないということ。
⑧そして最後に、神さまは御子を十字架におかけになるほどに私たちを愛して、神様ご自身が選び出し養子にしてくださっているということ。(赤子の養子が養父を選ぶことはできない。)
混乱の中でこのようなことをたどたどしくお話ししたと記憶しています。そして最後にこのように話を終えました。「〇〇さんは今牧師と受洗準備の勉強をされていますよね。この勉強を積み重ねて、受洗の決意を改めて聖霊によって導かれたとき、きっと『アッバ、父よ』と呼べる〇〇さんになっているはずです。その日が来ることを私は心待ちにしています。」○○さんはまだ腑に落ちない顔で私を見つめていました。申し訳なかったのですが、「あとは牧師にお聞きください。」と不在の牧師に任せてしまいました。
これで良かったのか今も私にはわかりません。でもその後にこのことを牧師に報告した際に、「あなたも勉強のきっかけが与えられてよかったですね。それこそが黙想なのですよ。」とおっしゃってくださいました。今一度、なぜ私たちは神さまを「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのかを整理してみたくなりました。信仰生活が長くなると当たり前になって、聖書の記述に感動することも少なくなりがちです。しかしここに私たちの救いの真理が明らかにされています。当然ですが求道中の方を導くのは信徒の務めだと思います。しかし大事なことに改めて気づかされたのは他でもない私でした。○○さんありがとう。そして○○さんに出会わしてくださった神さまに感謝いたします。



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